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りょうみすうだい
涼味数題
寺田 寅彦
「週刊朝日」1933(昭和8)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,617 字 · 10 页
涼しさは瞬間の感覚である。持続すれば寒さに変わってしまう。そのせいでもあろうか、暑さや寒さの記憶に比べて涼しさの記憶はどうもいったいに希薄なように思われる。それはとにかく、過去の記憶の中から涼しさの標本を拾い出そうとしても、なかなか容易に思い出せない。そのわずかな標本の中で、最も古いのには次のようなものがある。
幼い時のことである。横浜であったか、神戸であったか、それすらはっきりしないが、とにかくそういう港町の宿屋に、両親に伴なわれてたった一晩泊まったその夜のことであったらしい。宿屋の二階の縁側にその時代にはまだ珍しい白いペンキ塗りの欄干があって、その下は中庭で樹木がこんもり茂っていた。その木々の葉が夕立にでも洗われたあとであったか、一面に水を含み、そのしずくの一滴ごとに二階の燈火が映じていた。あたりはしんとして静かな闇の中に、どこかでくつわ虫が鳴きしきっていた。そういう光景がかなりはっきり記憶に残っているが、その前後の事がらは全く消えてしまっている。ことによると夢であったかもしれないと思われるほどおぼつかない記憶である。この、それ自身にははなはだ平凡な光景を思い出すと、いつでも涼風が胸に満ちるような気がするのである。