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ひのとり

火の鳥

太宰 治

「愛と美について」竹村書房、1939(昭和14)年5月20日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 37,740 字 · 76 页

青空文庫

まあ、当分、静かにして居れ。苦痛を、何か刺戟で治そうとしてはならぬ。ながい日数が、かかるけれども、自然療法がいちばんいい。がまんして、しばらくは、ここに居れ。おれは、これから、うちへ帰って、みなに報告しなければいけない。悪いようには、せぬ。それは、心配ない。お金は、一銭も置いて行かぬ。買いたいものが、あるなら、宿へそう言うがいい。おれから、宿のひとに頼んで置く。」

さちよは、ひとり残された。提燈をもって、三百いくつの石の段々を、ひい、ふう、みい、と小声でかぞえながら降りていって、谷間の底の野天風呂にたどりつき、提燈を下に置いたら、すぐ傍を滔々と流れている谷川の白いうねりが見えて、古い水車がぼっと鼻のさきに浮んだ。疲れていた。ひっそり湯槽にひたっていると、苦痛も、屈辱も、焦躁も、すべて薄ぼんやり霞んでいって、白痴のようにぽかんとするのだ。なんだか、恥ずかしい身の上になっていながら、それでもばかみたいに、こんなにうっとりしているということは、これは、あたしの敗北かも知れないけれど、人は、たまには、苦痛の底でも、うっとりしていたって、いいではないか。水車は、その重そうなからだを少しずつ動かしていて、一むれの野菊の花は提燈のわきで震えていた。