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ちちのかたみ

父の形見

豊島 与志雄

「行動」1934(昭和9)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,879 字 · 14 页

青空文庫

父もその女も、初心者ではなかったが、愛というものはいつも同じで、いつも若々しい。二人ともいやにしみじみとした気持で、一寸したことにも涙ぐみそうだった。

僕はもうとてもいけない。とそんなことを父は云い出した。始終君のことばかり考えていけない、とも云った。あたしもそうよ、と女も云った。それは当り前のことで、愛し合った男女が相手のことを思い出さないとしたら、どうかしている。

「始終君のことばかり考えてるようだ。たとえば、月を見ると……。」

平凡な言葉だが、それがいやにしっくり落付いて、少しもおかしくなかった。大真面目なのだ。

「月を見ると、先ず君に見せたいと思って、そして一人でつくづく眺める。花を見ると、先ず君に見せたいと思って、そして一人でつくづく眺める。小鳥の声をきくと、先ず君に聞かしたいと思って、そして一人じっと聞く。うまい物をたべると、先ず君にたべさせたいと思って、そして一人でゆっくりたべる。腹が痛むと……。」

とぎれたところへ、彼女がふいに云った。

「腹が痛むと……。」

父は何とも云えない変な顔をした。彼女はくく……と笑って、それから急にははははと笑いだした。