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ちちのかたみ
父の形見
豊島 与志雄
「行動」1934(昭和9)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,879 字 · 14 页
父も笑ってしまった。彼女は帯の上をたたき、父は首をかかえて、二人ともいつまでも笑ってやまなかった。
突然のその朗かな笑いが、二人の気分を晴れやかになした。後になっても、「腹が痛むと」という言葉が、楽しい話題となった。
「腹が痛むと……。」がでたらめな嘘であったとしても、それは、前の凡てをでたらめな嘘となしはしなかった。却って前の凡ての真実性をますに過ぎなかった。愛とはそういうものか。最後の一つの嘘で、気持を悪くしたり怒ったりするのは、本当の愛を知らない者のすることだ。
君も、恋人があったらためしてみ給え。もし君の恋人が笑わなかったら、それは、君たちの愛がまだ不安定な証拠だ。
君の父がもし、その時の朗かな笑いのうちに、彼女と一緒に死ぬことが出来たら、或は幸福だったかも知れない。だが、そんな幸福に甘えてはいけない。
正夫よ、窮迫のうちにあった君の父に、君が一の重荷となったであろうことは、君にも想像がつくだろう。
老婢がよく家庭の中を整えていてくれたので、父は君について細かな面倒をみてやる必要はなかった。然し父は時として君の死を想像することがあった。君が風邪の気味だったり、胃腸を少し害ったりする時、父は君の健康に細心な注意を払いながら、それと同時に、君の死を考えることがあった。