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たばたのきしゃそのほか

田端の汽車そのほか

宮本 百合子

「婦人」創刊号、1947(昭和22)年7月発行

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,507 字 · 17 页

青空文庫

そういう実家のごたごたの度に、母は、謙吉さんがいてくれさえしたら、と涙をこぼした。気がちがった謙吉さんのいる家は、それからのち、田端の汽車を見にゆくたびに思い出された。こわさと珍しさ、妙になつかしさの入り交った気もちで左手の崖の方を見上げた。もとよりそうして見上げたからといって、屋根の棟ひとつ目に入るわけでなかったのだけれども。――

崖が右手に聳えはじめているが、しかし左手はまだ平らで、大根畑などがあるあたりに、更にその奥へ通じる一本の草道があった。そこに一軒のしるこ屋があった。どういう商売の目算で、人家まばらな桜の木の梢に冬の日をうけながら、しること柔かい字で書いた旗が出されたのだったろう。

どこか心をさそうその風情にうごかされたと見えて、めずらしく通りがかりの母が私たちをつれてそこでおしるこをたべたことがあった。甘くて美味しかった。水色の、角のそげた小さい衝立が立っていた。しかしそこで御馳走になったのは一遍きりで、いつの間にか時がすぎ、あとで思い出したときその店はもう無くなっていた。

茶料理で有名であり、河童忌や大観の落書きで知られた天然自笑軒が出来たのは、大正のことで、女中が提灯を下げて送って出るその門は、同じ田端でもずっと渡辺町よりにあった。