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くじょしょうろく

痀女抄録

矢田 津世子

「改造」1939(昭和14)年7月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 32,578 字 · 65 页

青空文庫

此処の家も、尾久の家も、ところを明かさずじまいだったらしいが。……そうそう、あの爺さんね、なんでも元いた家の隣りの……」

「ああ、加福さんでしょう。有名な刺繍屋さんよ」

「ああ、あの人が、ねえ」

中尾は、感動をもって、寸時、黙した。

加福の師匠は、この日の午過ぎ、奥住の家に立寄ったのであった。悔みをのべて後、師匠はこう言った。

「寿女さんの刺繍されたもので、何か遺っているものでもありましたら、ぜひにも拝見させて頂きたいと思って参上しましたが」

「なんですか、鷲だか鷹だかの刺繍にかかっていたようでしたが、あれは……」

「あれは遺言で、わたくしが頂戴しました」

と、師匠はしずかに言った。「何か、他に遺っているものでもありましたらと思って……」

「ほかにと仰言いましても、別に……ああ、そう、このスリッパ、お寿女さんが刺繍してくれましたんですけれど」

龍子は、爪さきかけたままのスリッパを、ちょっと、もちあげてみせた。

「あっ!」というような小さな声が、師匠の口を洩れた。

それは、緑色の綸子の地に、白ひといろの蘭花を繍したものであった。

師匠は眼を凝らして眺めた。龍子が脱いだスリッパを膝にとって視入った。