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ひゃくしんのふ
百唇の譜
野村 胡堂
「文芸倶楽部」1931(昭和6)年9月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,209 字 · 25 页
すれ違った女、それも墨染の法衣を着た若い尼法師の美しさに驚いたのです。
頭こそ青々と丸めて居りますが、柔かい眉の曲線、黒い滴る瞳、真珠色に少し紅味のさした頬――いやいやそれは物の数でもありません。千代之助の心を犇と捕えたのは、尼法師の紅い唇――茱萸のように丸くて、茱萸のように艶やかな唇だったのです。
墨染の法衣を着た、殊勝な姿に、なんの蟠りもありませんが、この美しい唇はどう考えても経文を誦させるにふさわしいものではありません。
千代之助の足は、何時ともなく、その尼法師の後を慕って、上野の山下から、根岸の方へ歩いて居りました。その頃は鶯も梟も鳴いた根岸、日が暮れると滅切り淋しくなるのですが、尼法師はさまで急ぐ風もなく、木立から藪へ、藪から田圃へと、暗くなりかけた道を辿って、根岸の奥へ奥へと入って行ったのです。
ふと尼の姿は見えなくなりました。
道は藪と木立に隠れて、一方はささやかな生垣に突き当って居ります。
「狐にやられたのかな」
そう思うと、臆病な千代之助はぞっとして、逃げ腰になりましたが、次の瞬間、
「――――」
思わず足を停めました。
眼の前、ほんの二三間先に、思いもよらぬ灯が入って、鉦の音――やがて静かに読経の声さえ聞えたのです。