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ひゃくゆきょう
百喩経
岡本 かの子
「三田文学」1934(昭和9)年11月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,474 字 · 21 页
まわりの景色だけに何故かよく気がついた。
「こういうところで女の簪を落したのだな。よし、よく覚えといてやれ」
船は港の泊りを重ねて尾州蒲郡へ錨を下した。蒔蔵の故郷豊橋へはもう近い。
しかし、彼が木屋町の女に対する恋情は募るばかりだった。それより淡路の海へ落した銀の簪が惜しくてならなくなった。彼が着て居る着物とかえりの旅費ばかりになり、そのほかのあらゆるものを賭けての上方行きの代償は、たったあの銀の簪一本になったのだ。彼をそうさした女のたった一つの形見だったのだ。持って居て一生恨み辛みを云わねばならぬ。彼の胸は煮えつくして却ってぽかんとして仕舞った。
浜に網曳く声が聞えた。犬の声も交って居る。青松白砂。蒔蔵は
「ここは淡路じゃ無いぞ。蒲郡だぞ」
と何遍自分に云って聞かせてもどうしてもここが淡路に見えた。記憶のなかの洲本が消えて仕舞って眼の前に洲本の海がぎらぎらする光と生々しさをもって彼の感覚に迫った。
「簪を返して貰おう」
畳の目のような小皺を寄らせてねとりねとり透明な肌に媚びを見せて居る海の水を見詰めながら蒔蔵は帯を締め直した。それからずぶと海のなかへ這入った。