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ひゃくゆきょう
百喩経
岡本 かの子
「三田文学」1934(昭和9)年11月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,474 字 · 21 页
その幹の間から並んで動いて行く小さい苫屋が見えた。あたたかな砂浜には人が多ぜいいかなごを漁る網を曳いて居た。犬が吠え廻った。
船舷に頬杖を突いて一眠りした蒔蔵は痺れたような疲れもすっかり癒った。やる瀬ない気持ちだけが残った。
「そうだ簪があったのだ、おもかげをしのぼう」
よじれて来る浪頭を一すくい掌に掬い取って口にふくみ顔を撫でて新らしい三尺手拭でふいた彼は、眼の前の春の海原のなかに木屋町の白けたきぬぎぬを思い出した。あけ方の廊下は冷たかった。鉛の板のような草履だった。女は湯も取っては呉れなかった。ただ傍に立っていて欠伸をした。女の横顔をせめて別れにしみじみ見て置こうとしたら向うを向いて仕舞った。
「薄情者奴が横顔さえも惜んだのか。向うむくはずみにわたしの袖の上へ落ちたのがこの簪なのだが、女は気がつかなかった。わたしはそのまま袖のなかへすべり込ませた。安っぽい銀簪。なんだ菊が彫ってある。小癪にも籬が彫ってある。汚い油垢が溜って居る。それで居て、これを見ると恋しいのはどういうわけだ。ままよ嗅いでみてやれ」
捻くる拍子に簪を海へ落してしまった。蒔蔵はその時たいして惜しいとも思わなかった。