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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

13 黒白帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 116,638 字 · 233 页

青空文庫

「俄なことでお気もそぞろだ。なまじお供はせぬがよい」

表御門でも彼はおなじことを触れ、そして門外の駒に尊氏を乗せるやいな駈けだした。

靄のやわらかな春暁だが延福寺の屋根の下はまだ夜半の気配だった。墨のような長い廊下を途中で曲がって小さい灯が一ツ風に恟じながらおどおど奥へすすんで行く。かがみ腰に信濃が持っている紙燭であった。

立ちどまる。

信濃は尊氏を振向いた。

「ここでござりまする。ここが長の間の、お座所におざりました」

そして御堂建具の重たい遣戸を二尺ほどそっと開けた。

尊氏は無言のまま紙燭を受け取って「外にいよ」と命じ、また「そこを閉めよ」と言った。内は天井の高い中広間で、小さい灯影の及ぶところ、何もない。

ただ白い夜具と白い枕とが、しいんと、虚空の底の物みたいにあるにはあった。枕は落ちて、行儀を外し、衾はその下に何もないかのようで平べッたい。

「…………」

何か言ったのではあろう。尊氏の眉も唇も稲妻のように引ッつれた。だが、膝の関節がささえきれずにその体を先に崩してしまっている。そしてふるえる手がもう意志でもなく夜具の襟を剥くっていた。下に、顔があった。