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しほんたいへいき
私本太平記
吉川 英治
13 黒白帖
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 116,638 字 · 233 页
熱はたびたび、病人の意識界を超え、尊氏は時折、異様なうわ言をいった。そしてはまたふと現に返った。
「登子。……ああ眠たい。すこしやすませてくれ」
「ようお寝みのようでございましたが」
「いいや、耳の中で、のべつ釜の湯が鳴るような声がわんわんする。祈祷僧のわめきだ。止めさせろ」
「でも、せっかく……」
「今、わしは何ものにもすがってはいないのだ。また、神仏に後生を頼める自分でもない。ただ静かが欲しい。坊主どもはみな帰せ。祈祷はいらん」
以前から彼の心の隅には“山林”があった。“後生の願い”もたぶんにあった。すべて能わぬ希いであった。
それがいま、懐かしまれていたのであろうか。
尊氏はだんだんに、病間の孤独と寂かとを欲していた。邸内の祈祷僧はすべて帰してしまい、有隣や侍医たちの手当さえ、とかくうるさげに退けるふうだった。そして、薬餌、何から何までを、
「登子、登子」
と、妻へ甘える眼をして求めた。患部の膿汁を拭きとることから、朝夕のくすりの塗布や煎薬なども侍医にはさせないで妻にさせた。また熱湯でしぼッた布で体じゅうの皮膚を隈なく拭かせるときでも、子供のように安心して、彼女の手には人に見せたくない所もまかせきッているのだった。