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しほんたいへいき

私本太平記(一)

吉川 英治

吉川英治『私本太平記(一)』。同一底本的分册已合并为一书。收入:私本太平記、私本太平記。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 246,214 字 · 495 页

青空文庫

よくぞ、今日の多摩川を越えたものと、感心する。高氏には、とてもそんな勇気は出ぬわ。わしには、川が恐くて渡れぬのじゃ」

「ははあ?」

右馬介は、黙った。

たったいま、自分のいった言に、彼はひとりで低徊する。

――ご幼少からお側に仕えて来た身なので、若殿のご気性は万々存じ上げているつもりで――と、先にはいったが、だが、ちょっと高氏が分らなくなって来た。

こんな高氏をこれまでには彼も知らない。かつて、都の小酒屋で、足くびに噛みつこうとした献上犬の口へ、逆に、その足を猛犬の喉元まで突ッ込むような不敵さを備えたお人が、すなわち、わが高氏ぎみなり、とばかり思っていたのである。

「……いつから、こんな」

彼は、主人の変化に、小首をかしげずにいられなかった。――しかし、もしこの晩、高氏の口から、彼が祖父家時の置文を見てからの心情を打明けられたら、或いは、覚るところがあったかもわからない。

が、高氏はこの右馬介にさえ、その内容はおろか、置文を見たことすらも、告げなかった。

――かくて、翌日は、多摩の水かさも減って、所々の洲や河原の肌も、見えだしていた。高氏以下が、やがて同日、多摩を南へ越え渡ったのもいうまではない。