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しほんたいへいき

私本太平記(一)

吉川 英治

吉川英治『私本太平記(一)』。同一底本的分册已合并为一书。收入:私本太平記、私本太平記。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 246,214 字 · 495 页

青空文庫

むッとしたに違いない。右馬介が色をなして。「――うぬ、待てっ」とでも叫びそうに、あぶみ立ちして、先を睨んだので、又太郎はあわてて制した。

「やれ待て。おかしいぞ、いまの武者は」

「言語道断。いずれ近くの受領か郷武者ではござりましょうが、礼をしらぬにも程がある」

「だが、高氏ちがいと申したのは解せぬ。わしを又太郎高氏とは、どうして知るか」

「いかさま、それは」

「罠かもしれぬぞ。俗に申すかまをかけてみる手はよくある。めッたに、われから逸って手に乗るな」

道々には、ひとつの懸念がなくもなかった。

例の献上犬の事件である。

あの後始末は、伯父憲房がのみこんでくれてはいたが、六波羅から鎌倉通牒となり、その結果、さらに又太郎の無断上洛までが発覚となれば、幕府は怒ッているにちがいない。

わるくすれば、又太郎の帰国を海道の途上で拉し、鎌倉表へ届けよ、などの令が、すでに出ていないとは限るまい。

が、今日の旅路を鬱々と、そんな先案じにとらわれている彼でもなかった。春風に嬲らせてゆく面構えのどこかには「……ままよ」といったふうな地蔵あばたの太々しさが、いつも多少の笑みを伴っている。