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しんのゆうしゅう
秦の憂愁
豊島 与志雄
「文芸」1944(昭和19)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,389 字 · 19 页
次には、いつとなく彼のことを忘れかけてきた。
星野は忙しかった。上海と南京とを股にかけて、各方面に日程がぎっしりつまっていた。文学を中心として文化一般に亘り、いろいろな会合や調査などに、毎日飛び廻っていた。忙忽のうちに日々は過ぎて、予定一ヶ月は終り、あと数日で日本へ帰ることになった。
ぽつぽつ、帰途の荷物を整理しながら、星野はまた、秦啓源のことを思い出すのだ。そしてもう、思い出すことは、星野の性情として、何故彼に逢いたかったかを反省してみる方へ傾むいていた。
秦啓源は以前、東京に長らくいたことがある。中国大使館付の通訳官とかいう話であったが、誰も彼が通訳などしているのを見たことはない。それより彼は、文学者仲間に詩人として知られていた。日本語の長詩も数篇発表した。茫洋とした詩風で、中に鋭利な観察を含んでいた。抒情風の衣をまとった叙事詩、それが本領らしかった。勿論彼の詩才を認めそれを高く評価したのは、東京の文学者のうちの一部にすぎなかった。その一部にとっては、彼はまた時折、飲み仲間でもあった。酒には実に強かった。いつも金は多く所持していた。
太平洋戦争が始まって半年ばかりの後、彼はふいに支那へ帰った。