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はこねのやま
箱根の山
田中 英光
「文藝春秋 別冊2」1946(昭和21)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,963 字 · 33 页
私は先ず胸を撫で降ろし自分の空腹は仕方がないので噫にも出さず、再び一郎の手を引くと、音痴な声を張上げ、「箱根の山は天下の険」
須雲川の部落も過ぎ、両側は煙るような翠巒を仰ぐ美しい路だ。親父も子供も暫くは無心、無言で足を運んでいたが、ふと右側の山を仰ぐと、渓谷の彼方、青色の崖が陽の光りを浴び、幼い黄色に膨んだ弓形の上に、一条の滝がきらりと光り、直ぐ弓形の陰に姿を消していた。その滝にはまるで姿を露わに見られるのも恥ずかしいと言った、優しい風情があり、昔は神のように思った事もある現実の女性に殆んど絶望している私には、かえってその滝に女性の美に似たものが発見でき、ああこれは美しいなア、と何度も振返りながら行き過ぎたが、あとで地図を見たところが、この滝は、箱根霊顕記で知られた優しい女性、初花の名を取った初花の滝と言われる滝だった。
やがて須雲川の渓流にかけられた石橋も渡り、女坂と言う、なにか伝説のありそうな胸を突く嶮しい坂も登った。歩いて来たほうを眺めれば、小田原盆地が海を遠くから眺めたように蒼く煙っている。
兵隊語で言えば、一郎もだんだん顎を出して来たらしい。