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はこねのやま
箱根の山
田中 英光
「文藝春秋 別冊2」1946(昭和21)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,963 字 · 33 页
現在、電車で山に登りつつあるのだ、と教えても、ケーブル・カーに乗った折ですら、山に登っているのだとは諒解し切れぬ幼い頭では、きらり眼前にはがね色に冴えかえった蘆湖を眺めても、「やあ、海、海」と手を叩き、いかに親父が海と湖と異なるかを説いても、真物の海さえ知らぬ一郎は心から納得顔にならなかった。それでその翌日は自分の足で山を登らせてやろうと前日から計画し、初めはその辺の山にちょっと、登って、直ぐ宿に帰る気であったが、ぶらりと旧街道に立ち出てみると、今度は、私自身が、その東海道五十三次の中、難路を伝えられた箱根八里の山路を幾らかでも歩いて見たくなった。
そこで子供を振り返って、「おいこれから山に登ろうか」、「うん、登ろう、登ろう」、「とっても高い山だぞう。一郎に登れるかなあ」、「ダイジョブ、登れるよウ」、「ようし登れるか、きっと登れるね」としつこく繰返すのは、私も二重廻しに下駄穿きで足に自信がなかったし、六つの一郎の幼い足に不安があったからだが、しかし、生れてから朝鮮京城の西小門というゴミゴミした町に育ち、東京に来てやっと一年、それも世田谷の北沢と言う、ありきたりの郊外の町から一歩も出た事がない子供だから、この機会に、日本の山の美しさを満喫させてやりたい気持も強かった。