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はこねのやま

箱根の山

田中 英光

「文藝春秋 別冊2」1946(昭和21)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,963 字 · 33 页

青空文庫

それに満五歳になった子供自身も、漸く見るもの聞くものに不思議を感じ、宇宙の大に驚くだけの資格の出来てきた年頃とて、前日も登山電車の眼前に展開してくる、蒼緑の山々に大きな陽の眩めきと雲の影が刻々に移動し、または遙かな山頂の暖かそうなクリーム・イエローの照り輝きを見ては、「やあキレイだ」と讃嘆の声を惜しまなかった。その驚異の念をもう一度、味わせてやりたく、旧街道を踏破させてみる積りだったが、むろん頂上まで登る気持はなく時計を見ると未だ十時、一時間ばかり登ってどこかで昼飯を食い、またブラブラ帰って来ようと言う頗る呑気な料簡で、子供の手を引き、松並木の中を、さて、箱根の山を目指して登って行った。

実は親父の私にも箱根の山には幼い頃の思い出がある。死んだ父と母との間に悶着があり、出るの引くのと騒ぎがあったが、その和解の出来た翌日、一家を挙げて箱根の塔沢に遊びに行った。私は恰度、一郎と同じ年頃、今でも憶えているのは、夜、人の寝しずまった頃、一人、小便に起きて、便所の窓から眺めた真っ黒な山々の巨大な輪郭の思い出だ。自然がそんなにも恐ろしい静けさを持っているのに吃驚した。