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はこねのやま
箱根の山
田中 英光
「文藝春秋 別冊2」1946(昭和21)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,963 字 · 33 页
早く飲めよ」その叱言も上の空で一郎は鼻の頭まで私の掌に埋め、水を鱈腹飲んだらしい。「アア」と吐息雑りに持ち上げた顔が、喉まで水だらけなので、私は笑ってそれを汚ない手巾で拭いてやり、今度は自分が呆れるほど沢山、水を飲んだ。水も一時腹、少し元気が出て来たので、親子は手を繋ぎ声を揃え、「箱根の山は天下の険」と歌いながら、再び山坂をくねくね登って行った。
――自分一人でも箱根の山を越えるのは容易でないのに人を乗せた駕籠を一人で担いで、爪先登りに峠道を登って参ります。川端、須雲川、大曲、さいかち坂、象ヶ鼻、樫木坂と屏風を立てたようなところを登って行くと、細い道、下からスウッと冷たい風が吹いてくるので、武蔵、ヒョイと外を見ますと、自分の乗っている駕籠が数百尺もあろうと思われる谷の方に出ています――これはいつか講談で聞いた、宮本武蔵と関口弥太郎の箱根山中顔合せの場面の口真似だが、この講談に限らず黙阿弥の木間ノ笛と言う毒婦の芝居などでも、箱根山はいつも狼が出て来る物凄い深山にされていて、とても二重廻しに下駄を突っかけた親父に、長い外套を引きずった満五歳の子供が、昼飯抜きで歩ける道とは思えないが、とあれ一郎は口を結んだまままだ黙って歩いている。