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きくちよしょう

菊千代抄

山本 周五郎

「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页

青空文庫

「――でも、あとに弟が生れましたら」

「巻野を継ぐのではない分封するのだ」

世継ぎは必ず生れる、案外はやく生れるかもしれない、貞良は確信ありげにそういった。また分封とは所領の内から適当な高を分けて、それに相当した家来を持って、生涯独立の館主となることだと説明した。

菊千代は父にはなんとも返辞をしなかった。心のなかでは男として生きようと思ったが、からだが明らかに女であるという意識、それもまったく唐突に割込んできた意識のために、将来はとにかく現在のことすら、どう身を処していいか判断がつかなかったのである。……気持がおちついて、平常どおり寝起きをするようになっても、気鬱といって奥からは出なかった。身のまわりのことは松尾にさせ、会うのは樋口次郎兵衛ひとりである。庭も折戸を閉めて、待たちの奥庭へ入ることはもちろん、中庭から覗くことさえ禁じた。

「じいとおまえのほかに、若が女だということを知っているのは誰と誰だ」

ある夜、菊千代はこう松尾にきいた、松尾は考えるまでもなく名を挙げた。父と、亡くなった母と、侍医と、取上げた老女、江戸国許の両家老、そのほかに決して知っている者はないということであった。