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きくちよしょう

菊千代抄

山本 周五郎

「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页

青空文庫

――だが彼を生かしておいてはならない。

ごく短い刹那の痺れるような感覚のなかで、菊千代はこう思いきめ、「半三郎、近う寄れ」と云った。三度それを繰り返した。半三郎は左右の膝で僅かに前へ出た。菊千代は右手で短刀を抜き、すり寄って、左の手で半三郎の衿を掴むと、力をこめて彼の胸を刺した。半三郎は無抵抗であった。うっという声が喉を塞ぎ、全身の筋肉が痙攣して、刺しとおした短刀を烈しくくい緊めるように思えた。

「ああ、若、若さま」

半三郎が叫んだかと思った。しかしそうではなかった。うしろから誰か走って来て菊千代を抱きとめたのである。それは松尾であった。

「御短慮な、なにをあそばします」

「放せ、放せ」

菊千代は松尾をはねのけ、短刀を抜いてもうひと刺し刺しとおした。

それからあとのことはよく記憶がない。樋口次郎兵衛が駆けつけて来、松尾が菊千代をはがいじめにした。半三郎は前のめりに、左手を畳につき右手で胸を押えて、がくりと首を垂れていた、抜けて取れそうな衿足とその姿勢が崩れる瞬間とを見たように思う。……気がつくと常居の間に坐っていた。松尾が盥へ湯を取って、自分の両手を清めて呉れていたが、そうしながら松尾がひどく震えているので、菊千代は却っておちつきをとり戻した。