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きくちよしょう
菊千代抄
山本 周五郎
「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页
けれども主税の言葉には感ずるところもあったふうで、「どうもやはり、これは、差出がましゅうございますけれども、これはやはり奥方をお迎えあそばしませぬと……」
いつもの鈍感な調子でそう云いだした。それは主税が去った五六日経った或る日、二人で丘の上を歩いているときのことであった。
「おまえの気にすることではない」
菊千代は脇を向いたまま冷やかに云った。
「それはもう仰せのとおりですが」弥市はもそもそ口ごもったが、やがてまた、「――御領分の者なども、そのことでお噂を致しておりまするし」
「領内の者が……なにか云っているのか」
「そこはどうしても下民のことでございますから、いろいろと愚にもつかぬことを……もちろん御心配申上げてのことでございますが」
もうよせと叱りつけようとしたが、菊千代はそのまま黙って歩いた。八千石の館主で、二十六歳で、まだ結婚もせず若い待女も置かないとすれば、領内の者たちが不審に思うのは当然かもしれない。
――かれらはどんな噂をしているか。
こう考えると、およそ不清潔なものが想像され、ぞっと肌寒くなる感じだった。その不愉快な気持から逃げるように、ちょうどいつかの道にさしかかったので、菊千代はかなり急な細い坂を、足ばやに竹次の家のほうへ下りていった。