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ほたる
蛍
織田 作之助
「文芸春秋」1944(昭和19)年9月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,875 字 · 21 页
ところが、ある年の初夏、八十人あまりのおもに薩摩の士が二階と階下とに別れて勢揃いしているところへ駈けつけてきたのは同じ薩摩訛りの八人で、鎮撫に来たらしかったが、きかず、押し問答の末同士討ちで七人の士がその場で死ぬという騒ぎがあった。騒ぎがはじまったとたん、登勢はさすがに這うようにして千代とお良を連れて逃げたが、ふと聴えたおいごと刺せという言葉がなぜか耳について離れなかった。
あとで考えれば、それは薄菊石の顔に見覚えのある有馬という士の声らしく、乱暴者を壁に押えつけながら、この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を突き刺せ、と叫んだこの世の最後の声だったのだ。
勢いっぱいに張り上げたその声は何か悲しい響きに登勢の耳にじりじりと焼きつき、ふと思えば、それは火のついたようなあの赤児の泣声の一途さに似ていたのだ。
その日から、登勢はもう彼らのためにはどんな親切もいとわぬ、三十五の若い母親だった。同じ伏見の船宿の水六の亭主などは少し怪しい者が泊ればすぐ訴人したが、登勢はおいごと刺せと叫んだあの声のような美しい声がありきたりの大人の口から出るものかと、泊った浪人が路銀に困っているときけば三十石の船代はとらず、何かの足しにとひそかに紙に包んで渡すこともあった。