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さいぎょうのめ

西行の眼

下村 湖人

「青年」1933(昭和8)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 3,096 字 · 7 页

青空文庫

文覚には強い自我があった。彼は、あくまでも自分を忘れることが出来なかった。そこが彼をして、自己克服のために、すさまじい荒行を行わしめた理由でもあり、彼の偉さもまたその点にあったのである。が、結局、彼は西行ほどに徹底して自己を克服することができなかった。彼は、彼の周囲に対してつねに怒を感じた。自己を確立せんとする心は、たえず自己と他人とを対立せしめた。こうして彼は、西行の頭を叩き割ろう、とさえ思ったのである。彼の眼は、おのずと赤黒く燃えあがらざるを得なかった。

西行にも、無論、自我はあった。しかし、彼の自我は天地と共に生きる自我であった。草木虫魚とともに喜び、かつ悲しむ自我であった。それはいつも、水のようにさらさらとながれていた。ちょっと見ると力がないようでも、それは大地にしみ徹る自在無礙なるものであった。そこに、彼の眼が水晶のように静かに澄みきっていたわけがあるのである。

こうして、文覚の眼はついに西行の眼に克服されたが、それは、怒り、争い、打ち克たんとするものの心が、怒りと争いと勝敗とを超越したものの心に対して、如何に弱いものであるかを物語るものでなくて何であろう。