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しんらん
親鸞
三木 清
「展望」1946(昭和21)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,550 字 · 73 页
それらの天神や鬼神が擬人的に表象されるのも当然である。
*『倶舎論』には、「衆人、所逼を怖れて多く諸仙の園苑、および叢林、孤樹、制多等に帰依す」とあるが、迷信の起原は我々の生の「所逼」、災害、無常等の生の窮迫を怖れて、現在の欲楽を求めるところから邪神淫祠が生ずるのである。
偶像崇拝や庶物崇拝は人間が人間以下の邪神や自然物の奴隷となることであり、全くの邪道である。かような邪道が盛んになるということも末法時の悲しさである。『首楞厳経』にいう、「わが滅度ののち、末法のなかに、この魔民おほからん、この鬼神おほからん、この妖邪おほからん。世間に熾盛にして、善知識と称して、もろもろの衆生をして愛見の坑におとさしめん。菩提の路を失し、眩惑無識にして、おそらくは心を失せしめん。所過のところに、その家耗散して、愛見の魔となりて、如来の種を失せん。」
ところで親鸞は拝天、祠鬼、占星等の迷信について論ずるに当り、特に『弁正論』を引いて、道家の思想を批判している。道家の思想は多く迷信を生ぜしめたからである。これに対して右の『論語』からの引用は鬼神に事えることの非なるを述べたものであり、親鸞が儒教のヒューマニズムを重んじたことが知られる。