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だれもしらぬ

誰も知らぬ

太宰 治

「若草」1940(昭和15)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,123 字 · 14 页

青空文庫

夜の十時頃、私が母と二人でお部屋にいて、一緒に父のセルを縫って居りましたら、女中がそっと障子をあけ、私を手招ぎ致します。あたし? と眼で尋ねると、女中は真剣そうに小さく二三度うなずきます。なんだい? と母が眼鏡を額のほうへ押し上げて女中に訊ねましたら、女中は、軽く咳をして、あの、芹川さまのお兄様が、お嬢さんに鳥渡、と言いにくそうに言って、また二つ三つ咳をいたしました。私は、すぐ立って廊下に出ました。もう、わかってしまったような気がしていたのです。芹川さんが、何か問題を起したのにちがいない、きっとそうだ、ときめてしまって、応接間に行こうとすると、女中は、いいえお勝手のほうでございます、と低い声で言って、いかにも一大事で緊張している者のように、少し腰を落して小走りにすッすッと先に立って急ぎます。ほの暗い勝手口に芹川さんの兄さんが、にこにこ笑いながら立っていました。芹川さんの兄さんとは、女学校に通っていたときには、毎朝毎夕挨拶を交して、兄さんは、いつでも、お店で、小僧さんたちと一緒に、くるくると小まめに立ち働いていました。女学校を出てからも、兄さんは、一週間にいちどくらいは、何かと注文のお菓子をとどけに、私の家へまいっていまして、私も気易く兄さん、兄さんとお呼びしていました。