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かとにん

過渡人

豊島 与志雄

「帝國文學 第二十二卷第四號」1916(大正5)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,206 字 · 41 页

青空文庫

で矢島さんはよく、北風を避けた窓際に椅子を持ち出しては、背中を日に暖めた。暖炉の悪い石炭の火よりも、その方がどんなにか心地よかった。

矢島さんは非常な勤勉家であった。仕事のない時は大抵書物や雑誌を読んでいるのが常であった。然しこの頃ただぼんやりと日向ぼっこをしていることが多くなった。静に椅子に身をもたして取り留めもない思いに沈むことがよくあった。そしてふと思い出したように髭を撚った。然し別に立ち上ろうともしなかった。何か安逸なそして重いものが彼の頭の中に在った。そういう時他の事務員が何か用事でやって来る時、彼はちらと眉根を寄せた、そして「おはいり。」と大きい声で云った。

或る日矢島さんは会社から帰って洋服をぬぎながら妻に云った。

「笹尾はちっとも姿を見せないよ。」

「さようですか。」

常子のそういう冷淡な返事を聞いて矢島さんは口を噤んでしまった。

然し矢島さんは別に笹尾が来るのを待っているわけでもなかった。どうかするとふと笹尾のことが頭に浮んで来ることもあったが、彼は其処に何の意味も認めなかった。ただ訳の分らぬ妙な苛ら立たしさを感ずるのみであった。

で或る日笹尾が会社の方に訪ねて来た時も、すぐにそれと察知したのを矢島さんは不思議に思った位である。