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かとにん

過渡人

豊島 与志雄

「帝國文學 第二十二卷第四號」1916(大正5)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,206 字 · 41 页

青空文庫

老母が病気で非常に困っていると云っていたが。」

常子は黙っていた。

「どんなことを云っていたんだい。」

「元通り使ってくれるようにとくり返しくり返し頼んでゆきました。あのことは真実年とった母親の薬代に困ってやったので、決して慾心からしたのでない。そして今ではほんとに改悛している。……と云うようなことを幾度も云っていました。それから、涙を眼に一杯ためて、母親の病気やら、生活向きの困難やら、種々なことを打ち明けてから、もしまた使って貰えなかったらたった一人の老母を見殺しにしなければならない、またどうせむずかしいものなら相当の薬用だけはさしてやりたい、と云っては泣きそうな顔をしていました。私ほんとに可愛想な気がしました。親孝行な人ですから。」

「でお前から俺に頼んでくれと云うんだな。」

「いいえ、初っからあなたにお目にかかりたいと云って来ましたのです。お帰りを待っていたんですけれど、あまりお遅いから、何れまた会社の方へ伺いますと云って、つい先刻帰ったばかりなんです。」

矢島さんは暫く黙っていた。

「また使ってやるわけにはゆかないんでございましょうか。あの人は腕もしっかりしていますし、ずっと古くから働いてもいましたし、随分会社のためにも尽したのでしょうから。