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ぎんざアルプス
銀座アルプス
寺田 寅彦
「中央公論」1933(昭和8)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,830 字 · 26 页
寺々の鐘が鳴り渡ると爆竹がとどろいてプロージット、プロージットノイヤールという声々が空からも地からも沸き上がる。シャン/\/\と雪ぞりの鈴が聞こえ、村の楽隊のセレネードに二階の窓からグレーチヘンが顔を出す。たわいもない幻影を追う目がガラス棚のチョコレートに移ると、そこに昔の夢のビスケット箱の中のメールコーチが出現し、五十年前の父母の面影がちらつき、左団次の知盛が髪を乱して舞台に踊るのである。コーヒーの味のいちばんうまいのもまたそういうときである。
雪や寒い雨の日にコーヒーのうまいのはどういうわけであるか気象学者にも生理学者にもこれはわからない。空気が湿っていて純粋な「渇」を感じないために、余裕のできた舌の感覚が特別繊細になっているためかもしれないと思われる。
銀座でコーヒーを飲ませる家は数え切れないほどたくさんあるが、家ごとにみんなコーヒーの味がちがう。そうして自分でほんとうにうまいと思うコーヒーを飲ましてくれる家がきわめて少ない。日本の東京の銀座も案外不便なところだと思うことがある。日本でのんだいちばんうまいコーヒーはずっと以前にF画伯がそのきたない画室のすみの流しで、みずから湯を沸かしてこしらえてくれた一杯のそれであった。