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かぎ

鍵

谷崎 潤一郎

「中央公論」中央公論社、1956(昭和31)年1月、5月~12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 102,182 字 · 200 页

青空文庫

書斎はこの茶の間の真上にあるので、音は聞えて来ないけれども、夫が今何をしつつあるか、書見をしているか、書き物をしているか、彼は彼で日記をつけているか、それともボンヤリ考えごとをしているか等々のことは、おおよそ私に察知できるような気がするのだが、それは恐らく夫の方も同様であろう。書斎はいつもシーンとして静かなのだけれども、しかし時々、夫が俄然息を詰めて階下の茶の間に注意を凝らし始めたらしく思われる、或る特別にシーンとしてしまう―――ような気がする―――瞬間がある。私が二階を意識しながら密かに日記帳を取り出して筆を執りつつある時に、ややもするとそういう瞬間が訪れるのであるが、それは私の気のせいばかりでもあるまい。私は音を立てないようにするために、西洋紙にペン字で書くことを避け、かように柔かい薄い雁皮紙を袋綴じにした小型の和装の帳面を作り、それへ毛筆の細字でしたためているのだが、さっきは私としてついぞないことに、書く方に興が乗り過ぎて、ほんの一二秒の間二階への注意を怠っていた。と、その時故意か偶然か、夫が音もなく便所へ下りて来て、茶の間の前を素通りして、用を済ますとまたすぐ二階へ上って行った。