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やすりくず

鑢屑

寺田 寅彦

「週刊朝日」1924(大正13)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,364 字 · 13 页

青空文庫

一

ある忙しい男の話である。

朝は暗いうちに家を出て、夜は日が暮れてしまってから帰って来る。それで自分の宅の便所へはいるのはほとんど夜のうちにきまっている。

たまたま祭日などに昼間宅に居ることがある。そうして便所へはいろうとする時に、そこの開き戸を明ける前に、柱に取付けてある便所の電燈のスウィッチをひねる。

それが冬だと何事もないが、夏だと白日の下に電燈の点った便所の戸をあけて自分で驚くのである。

習慣が行為の目的を忘れさせるという事の一例になる。

二

雨上がりに錦町河岸を通った。電車線路のすぐ脇の泥濘の上に、何かしら青い粉のようなものがこぼれている。よく見ると、たぶん、ついそこの荷揚場から揚げる時にこぼれたものだろう、一握りばかりの豌豆がこぼれている。それが適当な湿度と温度に会って発芽しているのであった。

植物の発育は過去と現在の環境で決定される。しかし未来に対する考慮は何の影響ももたない。もしそれがあるのだったら、今にも人の下駄の歯に踏みにじられるようなこんな道路の上に、このような美しい緑の芽を出すはずはない。