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かぜたちぬ
風立ちぬ
堀 辰雄
序曲、風立ちぬ「改造」1936(昭和11)年12月号、冬「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号、春「新女苑」1937(昭和12)年4月号、死のかげの谷「新潮」1938(昭和13)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 54,998 字 · 108 页
「あら、又、栗が落ちた……」彼女は目を細目に明けて私を見ながら、そう囁いた。
「ああ、あれは栗だったのかい。……あいつのお蔭でおれはさっき目を覚ましてしまったのだ」
私は少し上ずったような声でそう言いながら、そっと彼女を手放すと、いつの間にかだんだん明るくなり出した窓の方へ歩み寄って行った。そしてその窓に倚りかかって、いましがたどちらの目から滲み出たのかも分らない熱いものが私の頬を伝うがままにさせながら、向うの山の背にいくつか雲の動かずにいるあたりが赤く濁ったような色あいを帯び出しているのを見入っていた。畑の方からはやっと物音が聞え出した。……
「そんな事をしていらっしゃるとお風を引くわ」ベッドから彼女が小さな声で言った。
私は何か気軽い調子で返事をしてやりたいと思いながら、彼女の方をふり向いた。が、大きくって気づかわしそうに私を見つめている彼女の目と見合わせると、そんな言葉は出されなかった。そうして無言のまま窓を離れて、自分の部屋に戻って行った。
それから数分立つと、病人は明け方にいつもする、抑えかねたような劇しい咳を出した。再び寝床に潜りこみながら、私は何んともかとも云われないような不安な気持でそれを聞いていた。