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しょくよく

食慾

豊島 与志雄

「中央公論」1935(昭和10)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,672 字 · 20 页

青空文庫

野口は、朝から何か生臭いものを食べるのが好きです。沓掛に来ましては、魚類が不便なので、牛肉の罐詰や佃煮や、時にはすぐ側の旅館にたのんで鯉こくなどを、朝から食べました。そして、脂のぎらぎら浮いてる味噌汁を、音を立ててすすったり、佃煮で茶漬にした御飯を、くしゃくしゃかんだりしますのを、そばで見ていますと、その匂いがむかむかと胸にきて、私はもう何にも食べる気がなくなります。いくら眼をそらしてもだめなんです。すると野口は、気の毒そうな眼付で私を眺めます。やはり、冷い、氷のような憐憫です。その奥に、恐ろしい野性……そんなものを私は感じてはいけなかったのでしょうか。

――「お前は、胃腸も悪いかも知れないが、それより、神経衰弱かも知れないよ。」と野口は申します。

まあなんと、安っぽく、片付けてしまったことでしょう。時々、野口のそばで、私はぞっと、云い知れぬ不安を覚ゆることがありましたが、それは神経衰弱なんかのせいではありません。野口のうちには、何かこう、私を押し潰してしまうようなものがありました。それが何であるか、本体を捉えようとすると、私はただ、自分の弱さや脆さを感ずるだけでした。