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くろいてちょう
黒い手帳
久生 十蘭
「新青年」1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,026 字 · 38 页
この二組の生活を観察しようと思うなら同じ数だけ階段を昇降するだけでよかった。自分は階下で夫婦と談話し、すぐその足で六階の彼のところへ上ってゆく。互いに関知せず、そのくせ微妙に影響し合う興味深い二つの生活を自分は両方からあますところなくながめていたのである。
自分は文学者ではないから面白いようにも読みやすいようにも書くことは出来ぬ。が、ものを見る眼だけはたいして誤らぬと信じる。自分は見たままに書く。これを書く動機は充分にあるのだが、それまでうちあける気はない。懺悔のためとも感傷のためとも、勝手にかんがえてくれてよろしい。
一、この年の中頃から為替は不幸な偏倚をつづけていた。三月目にはむかしの半分に、半年の終りには約三分の一になってしまった。留学にたいする自分の年金は一定の額に釘付けされているので、研究に必要な所定の年月だけパリに止まるためには為替の率に応じて生活を下落させてゆかねばならぬ。そういう理由によって半年の間に三度移転した。一度毎に趣味が悪くなった。三度目のこの宿はこれ以上穢くては人間として面目を保つことは出来まいと思われるほどのものだった。