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くろいてちょう

黒い手帳

久生 十蘭

「新青年」1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,026 字 · 38 页

青空文庫

手すりのかわりに索をとりつけた穴だらけの暗い嶮しい階段を非常な危険をおかしてのぼってゆく。五階のとっつきに、その部屋があった。鉄棒をはめた小窓がひとつ。瓦敷の床、むきだしの壁には二三日前の雨じめりがしっとりとしみ透って、ところどころに露の玉をきらめかせている。これを人間に貸そうというのである。着想のすばらしさに感動してその部屋を借りることにした。為替の下落もよもやここまでは追いつくまい。とすると当分移転のめんどうだけははぶけるからである。

寝台に腰をおろしてなすこともなく腕をこまぬいでいると、扉を叩いて、びっくりした子供のような一種不可解な顔をした男がはいってきた。髪は遠慮なく薄くなりかけているが、顔のほうは二十一、二歳でハタと発達をとめたものとみえる。

自分の部屋を訪れるために無理に上衣の釦をかけてきたのだろう。その釦を飛ばすまいとして一生懸命に下っ腹を凹ましているふうだった。通例の挨拶の後、舌ったらずな口調で「わたしはこの階下に住んでいるものです。お差支えなかったら、おちかづきのしるしに晩餐をさしあげたい」といい「なにしろ今日は、降誕祭前夜のことだから、ひとりで夜食をなさるのは、さぞ味気ないだろう。