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くろいてちょう

黒い手帳

久生 十蘭

「新青年」1937(昭和12)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,026 字 · 38 页

青空文庫

それに、妻も非常に希望しているから」という意味のことをきわめてぼんやりとつけくわえた。

一、夫婦の部屋は貧困なりにやはり家庭だとうなずかせる和やかな雰囲気があった。その中にたいへん小柄な女が立っていた。これが妻君だった。前髪を眉の上で切り揃えて、支那の女のようにしている。二十四五歳であろうか。どんな男をもどきりとさせずにおかぬような煽情的な眼付で手を握ると、「ようこそ」といった、それが自分には、Je t'aime(汝を愛す)といわれたような気がした。そんな錯覚を起させる過度なものが、たしかに抑揚の中に含まれていた。

この夫婦はアメリカの生れのいわゆる第二世同志で、夫のほうは声楽を妻君のほうはピアノの勉強をしているということだった。

食事と身上話がすむとお定まりのアルバムが出てきた。いずれの前例に劣らず退屈千万なものだった。その中に博徒のような無惨な人相をした角刈の男の写真があった。自分は興味を感じ、親族かとたずねると、それは布哇の大漁場主で赤の他人なのだが、二人の勉強ぶりに感激して義侠的に三年の巴里遊学の費用をひきうけてくれ、いまここで勉強しているのはこのひとの後援によるものだといった。