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ぼくとうきだん
濹東綺譚
永井 荷風
線上閱讀永井 荷風《濹東綺譚(ぼくとうきだん)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 57,666 字 · 114 頁
翁は毎夜の見聞によって、電車のどの線には女給が最も多く乗るか、又その行先は場末のどの方面が最も多いかという事を能く知っていた。自慢らしく其話に耽って、赤電車にも乗りそこなう事がたびたびであったが、然しそういう場合にも、翁は敢て驚く様子もなく、却て之を幸とするらしく、「先生、少しお歩きになりませんか。その辺までお送りしましょう。」と言う。
わたくしは翁の不遇なる生涯を思返して、それはあたかも、待っていた赤電車を眼前に逸しながら、狼狽の色を示さなかった態度によく似ていたような心持がした。翁は郷里の師範学校を出て、中年にして東京に来り、海軍省文書課、慶応義塾図書館、書肆一誠堂編輯部其他に勤務したが、永く其職に居ず、晩年は専ら鉛槧に従事したが、これさえ多くは失敗に終った。けれども翁は深く悲しむ様子もなく、閑散の生涯を利用して、震災後市井の風俗を観察して自ら娯しみとしていた。翁と交るものは其悠々たる様子を見て、郷里には資産があるものと思っていたが、昭和十年の春俄に世を去った時、其家には古書と甲冑と盆裁との外、一銭の蓄もなかった事を知った。
この年銀座の表通は地下鉄道の工事最中で、夜店がなくなる頃から、凄じい物音が起り、工夫の恐しい姿が見え初めるので、翁とわたくしとの漫歩は、一たび尾張町の角まで運び出されても、すぐさま