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あめのかみこうち
雨の上高地
寺田 寅彦
線上閱讀寺田 寅彦《雨の上高地(あめのかみこうち)》,假名注音日語閱讀。JLPT N2,點詞查義。
N2 · 挑戰 · 新字新假名 · 4,473 字 · 9 頁
山好きの友人から上高地行を勧められる度に、自動車が通じるようになったら行くつもりだといって遁げていた。その言質をいよいよ受け出さなければならない時節が到来した。昭和九年九月二十九日の早朝新宿駅中央線プラットフォームへ行って汽車を待っていると、湿っぽい朝風が薄い霧を含んでうそ寒く、行先の天気が気遣われたが、塩尻まで来るととうとう小雨になった。松本から島々までの電車でも時々降るかと思うとまた霽れたりしていた。行手の連峰は雨雲の底面でことごとくその頂を切り取られて、山々はただ一面に藍灰色の帷帳を垂れたように見えている。その幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている。それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。
島々からのバスの道路が次第次第に梓川の水面から高く離れて行く。ある地点では車の窓から見下ろされる断崖の高さが六百尺だといって女車掌が紹介する。それが六百尺であることがあたかもその車掌のせいででもあるかのように、何となく得意気に聞こえて面白い。
近在の人らしい両親に連れられた十歳くらいの水兵服の女の子が車に酔うて何度ももどしたりして苦しそうであるが、苦しいともいわずに大人しく我慢しているのが可哀相であった。