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しほんたいへいき
私本太平記
吉川 英治
Read 私本太平記 (しほんたいへいき) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 126,598 characters · 254 screens
「おとうさまアっ」
多聞丸の声である。――下の千早川で水遊びでもしているのだろう、父の姿を見つけ、木立で埋まっている断層の下から遥かに呼んでいる。
「いま行くぞ」
正成は降りかけた。
近くの百姓の子や侍長屋の子らも交じって、まッ裸な童の群れが、涸れ涸れな渓流に、水を見つけて、ぴちぴち遊び跳ねているのを覗くと、彼の鬱気も、いっぺんに飛んでいた。
旱魃いらい、領下の訴え事は、日ましに多い。――それに雑客。さらに今日の午後にはまた、高安番所の六波羅武士が三人も来て、用もないのに、くだらぬ雑談などして、小半日もねばッてゆき、やっといま、肩をほぐしに、庭づたい、裏の渓谷の上に立っていたところだった。
「おとうさまアっ……。ここには、水がありますよっ。いらっしゃい」
「いま行く。いま行く」
崖は急なのである。子供のように軽捷には降りられない。翠の傾斜を下へ沈みかけてゆく彼の姿が、途中から答えていた。
ひとつ、自分も童の群れに入り交じって、まっ裸な五体に水しぶきを感じてみたい。正成の答えた声には、そんな意欲がこもっていた。しかし思いながら、彼には、それが出来ないかもしれなかったが、今ばかりでなく、多聞丸にまといつかれる時の父なる彼は、いつもただ、そんな疼きには衝かれるのだった。