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きどうむかしがたり
綺堂むかし語り
岡本 綺堂
Read 綺堂むかし語り (きどうむかしがたり) by 岡本 綺堂 (おかもときどう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 183,656 characters · 363 screens
脚絆を穿いたお婆さんが正面の階段の下に腰をかけて、藍のように晴れ渡った空を仰いでいる。玩具の刀をさげた小児がお百度石に倚りかかっている。大きい桜の木の肌がつやつやと光っている。丘の下には桂川の水の音がきこえる。わたしは桜の咲く四月の頃にここへ来たいと思った。
避寒の客が相当にあるとは云っても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静かで、宿の二階に坐っていると、聞えるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞く。時刻をしらせるのではない、寺の勤行の知らせらしい。ほかの時はわたしもいちいち記憶していないが、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電燈が一度に明るくなるからである。
春の日もこの頃はまだ短い。四時をすこし過ぎると、山につつまれた町の上にはもう夕闇がおりて来て、桂川の水にも鼠色の靄がながれて薄暗くなる。河原に遊んでいる家鴨の群れの白い羽もおぼろになる。川沿いの旅館の二階の欄干にほしてある紅い夜具がだんだんに取り込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行にも商店にも、一度に電燈の花が明るく咲いて、町は俄かに夜のけしきを作って来る。