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ちくしょうだに

ちくしょう谷

山本 周五郎

「別冊文藝春秋」1959(昭和34)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 69,788 字 · 138 页

青空文庫

「知っています」相手がなのるのを聞いてから、隼人は云った、「なにか用ですか」

隼人の眼には、両親のない乳呑み子を見るような、やさしく深い色が湛えられた。

「歩きながら話しましょう」と斎藤は云った、「北の馬場までいってくれませんか」

「いや」と隼人は穏やかに拒んだ、「私は帰って甥の勉強をみなければなりません、話があるならここで聞きましょう」

「歩いて下さい」と斎藤が云った、「――じつは貴方が訪ねていらっしゃるだろうと思って、待っていたのです」

隼人は歩いてゆきながら、正面を見たまま「どうして」と反問した。

「あのはたしあいのことで」と斎藤が口ごもりながら云った、「私になにか訊きたいことがあるのじゃあありませんか」

隼人は三歩ほど歩いてから云った、「あの事ははっきり始末がついていると聞きました、そうではなかったんですか」

「それはそうですが、しかし、――」斎藤はおちつかないようすで、咳をした、「そうすると貴方は、あのはたしあいについて疑念を持ってはいないんですね」

隼人は振向いて相手を見た。その眼はやはりやさしそうな深い色を湛えていた。

「疑念を残すようなことがあったのですか」