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ちくしょうだに
ちくしょう谷
山本 周五郎
「別冊文藝春秋」1959(昭和34)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 69,788 字 · 138 页
「とにかくその人間の名は口にしないでくれ」と彼は眼をそむけながら云った、「さあ、仕事にかからないと咎められるぞ」
あやは「はい」と答えた。いつものあやらしい、すなおな声であった。
隼人はあやの話を聞いてから、気分がかなり軽くなった。矢を射かけたのが権八らしいということは、正内老人も否定していたが、べつの意味でも、いちは権八の手であんなにひどく鞭打たれた。その権八に対して、ひそかに食物をはこぶということは、どうもしんじつらしく思えなかった。
やっぱりそうだったのか。
あの男がいちを巧みに使って、権八が生きているようにみせかけたのだ。木戸の近くで権八を見かけたと云って、追手をかけたのもあの男だ。七曲りの上へ出る距離は、崖の道より半分がた近いという。あの男は先廻りをして待伏せ、上から岩を押したのだ。そうするために「権八を見かけた」という口実を設けて木戸を出たのだ。
――そうときまれば気は楽だ。
権八でないとわかれば、一人に対して用心すればいい。権八もまたあらわれるかもしれないが、この隼人だけを覘う理由はないだろう。慥かな相手はあの男ひとりだ、と隼人は思った。