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ばちあたり

ばちあたり

山本 周五郎

「小説新潮」新潮社、1960(昭和35)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,391 字 · 44 页

青空文庫

私は彼に「乗れよ」と云った、発車時刻が迫っていて、歩廊にいる客たちは次つぎと車内へはいってゆき、私たちのまわりには見送りの人や、走って来る乗客たちがまばらに見えるだけであった。

「ねえ、どう思う」と啓三は急に声をひそめて云った、「キトクっていう電報はこれで三度めだろう、あんたは三度とも診察しているでしょう、それでこんどはどうだと思う」

私は穏やかに云ってやった、「きみは香水のスプレーは丹念に握るくせに、髭を剃ることは忘れるらしいな」

「あんたにはわからないポケットさ」啓三は右手で口のまわりを擦った、「このぶしょう髭を少し伸ばしてるのが、当代仲買人のはやりっ子っていう看板なんでね、いまどき髭をきれいに剃ってるなんてのはバーテンダーか、信託銀行の支店長かベル・ボーイ、やあ、女傑があらわれましたぜ」

啓三は右手をあげて振りながら、階段口のほうへ走っていった。姉の順子は、トランクといいたいほど大きなスーツ・ケースを、両手で提げて持っていた。私は啓三がそれを受取るのを見て、車室の中へはいった。――十二月十八日という時期のためか、それとも午前八時なにがしという半端な時間のためか、その特二の車内は客も三分の二くらいしかなかったし、私たちのまわりには、一と組の若い夫婦らしい二人が、通路を隔てた向うの席にいるだけであった。