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ひとでなし

ひとでなし

山本 周五郎

「講談倶楽部」1958(昭和33)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,484 字 · 38 页

青空文庫

艶つやしい二の腕が覗いた。ええ結構よ、有難う、とおようは云った。おつねは櫛を拭き、自分の手を拭きながら、三年の余も御厄介になっていて、こんな話をうかがうのは今夜が初めてですね、と云った。

「でもうかがってみると、おかみさんは苦労なんかなすってないようじゃありませんか、餝屋さんの一人娘に生れて、大事にかけて育てられて、津ノ正の方たちに可愛がられて、そうしてこんどは津ノ正のごしんぞさんになるんですもの、苦労なすったにしてもあたしなんぞの苦労とは段も桁もちがいますよ」

「みんなそう思うんじゃないの」

「とんでもない、ほんとにあたしなんぞの苦労とは桁ちがいですわ」

「ひとはみんなそう思うのよ」おようは蒔絵の細い櫛を取って、たばねた髪の根に差しながら云った、「自分は誰よりも仕合せだとか、世の中でいちばん苦労したのは自分だとかって、――他人のことはわかりゃしない、いくらひとの身になって考えたって、その人の傷の痛さまではわかりゃしないでしょ、一生涯つれそった夫婦でも、しんそこわかりあうということはないようよ、それでおさまっていくんだろうけれど、人間てそういうもんだと思うと、悲しくなるわね」