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ふたつのみち

二つの途

豊島 与志雄

「新小説」1920(大正9)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 51,102 字 · 104 页

青空文庫

暫く身動きもしなかった。と突然、幻をでも見るように室の真中を見つめた。それから俄に身を研して、画室から飛び出した。髪油のついた両手を拡げてやって来る高子と、廊下で行き合った。彼女は慴えていた。病室の中に逃げ込んだ。静かだった。

「どうしたんだ、つっ立って。」と啓介は云った。

信子は片隅に坐った。そして、追いつめられたように肩をすぼめた。過去のことが凡ての重さで、彼女の後ろからのしかかってきた。何れへ行こうと自由だと考えていた彼女は、自分の身を繋いでいる眼に見えない多くの鎖を、愈々の時になってまざまざと感じた。既に一人の男に身を任したことのある女性のみが知る鎖だった。彼女の悩みは、頭の中だけのものではなくて、実質的のものとなった。呼吸の度に、心臓の鼓動の度に、うち揺いでいる自分の柔かな肉体を、彼女は着物を通して見つめた。その肉体に泌み込んだ男の息吹きが、まざまざと感ぜられた。永久に絶ちきれない鎖、消すべからざる絡印。それから脱するには身を殺すより外に途はなかった。

啓介は一言も口を利かなかった。信子も黙っていた。そして彼女は、もう一歩も病室の外に出なかった。