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ふたつのみち
二つの途
豊島 与志雄
「新小説」1920(大正9)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 51,102 字 · 104 页
十五
この夜中に!」
二人は口を噤んだ。高子は床の上に居座いを直した。深い沈黙が室の中を支配した。啓介は、先の太い木下の手指を見つめていた。木下はそれを痙攣的に震わした。そして、ゆるやかな殆んど聞き取れない位の声で云った。
「岡部、僕はほんとの苦しみにぶつかるためにやって来たのだ。それが、君を苦しめに来たような形になってしまった。許してくれ。」
然しその調子には少しもしみじみとした所はなかった。暗い渦の中から湧き出る声のようだった。啓介は眼を伏せた。木下は立ち上った。彼は黙って室を出て行った。
木下の足音が廊下の向うに消え去ってしまうと、信子はつと起き上った。啓介がじっと寝ていた。
十五
翌朝、木下は婆やと同時に起き上った。その前にも一度起き上って画室に行ったが、黎明前の冷たい夜の空気に、彼は震え上った。煖炉に火を焚こうとしたが、あたりが余りに静まり返っていた。誰にともなく――必ずしも岡部や信子に対してばかりでなく――物音が憚られた。彼は帰って来て、また蒲団を被った。昨夜からの苦しい悪夢のような考えが、機械的に連続して、頭が惑乱のうちに汗ぼんできた。手足の先は冷えきっていた。