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いまどしんじゅう
今戸心中
広津 柳浪
「文芸倶楽部」1896(明治29)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,688 字 · 74 页
「なにない。何にもない」
「君はなかろうが……。おい、おい、何をそんなに急ぐのだ」
「何をッて」
西宮は平田の腕を取ッて、「まア何でもいい。用があるから……。まア、少し落ちついて行くさ」と、再び室の中に押し込んで、自分はお梅とともに廊下の欄干にもたれて、中庭を見下している。
研ぎ出したような月は中庭の赤松の梢を屋根から廊下へ投げている。築山の上り口の鳥居の上にも、山の上の小さな弁天の社の屋根にも、霜が白く見える。風はそよとも吹かぬが、しみるような寒気が足の爪先から全身を凍らするようで、覚えず胴戦いが出るほどだ。
中庭を隔てた対向の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女二個の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。
「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背を欄干にもたせ変えた時、二上り新内を唄うのが対面の座敷から聞えた。
「わるどめせずとも、そこ放せ、明日の月日の、ないように、止めるそなたの、心より、かえるこの身は、どんなにどんなに、つらかろう――」
「あれは東雲さんの座敷だろう。さびのある美音だ。どこから来る人なんだ」