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いまどしんじゅう

今戸心中

広津 柳浪

「文芸倶楽部」1896(明治29)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,688 字 · 74 页

青空文庫

九

吉里も善吉を冷遇てはいた。しかし、憎むべきところのない男である。善吉が吉里を慕う情の深かッただけ、平田という男のあッたためにうるさかッたのである。金に動く新造のお熊が、善吉のために多少吉里の意に逆らッたのは、吉里をして心よりもなお強く善吉を冷遇しめたのである。何だか知らぬけれども、いやでならなかッたのである。別離ということについて、吉里が深く人生の無常を感じた今、善吉の口からその言葉の繰り返されたのは、妙に胸を刺されるような心持がした。

吉里は善吉の盃を受け、しばらく考えていたが、やがて快く飲み乾し、「善さん、御返杯ですよ」と、善吉へ猪口を与え、「お酌をさせていただきましょうね」と、箪笥を放れて酌をした。

善吉は眼を丸くし、吉里を見つめたまま言葉も出でず、猪口を持つ手が戦え出した。

九

「善さん、も一つ頂戴しようじゃアありませんか」と、吉里はわざとながらにッこり笑ッた。

善吉はしばらく言うところを知らなかッた。

「吉里さん、献げるよ、献げるよ、私しゃこれでもうたくさんだ。もう思い残すこともないんだ」と、善吉は猪口を出す手が戦えて、眼を含涙している。

「どうなすッたんですよ。