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いまどしんじゅう

今戸心中

広津 柳浪

「文芸倶楽部」1896(明治29)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,688 字 · 74 页

青空文庫

「此糸さん、早くおくれッたらよ、盃の一つや半分、私しにくれたッて、何でもありゃアしなかろうよ」

「吉里さん」と、小万は呼びかけ、「お前さんは大層お酒が上ッたようだね」

「上ッたか、下ッたか、何だか、ちッとも、知らないけれども、平右衛門の台辞じゃアないが、酒でもちッと進らずば……。ほほ、ほほ、ほほほほほほほ」

「飲めるのなら、いくらだッて飲んでおくれよ。久しぶりで来ておくれだッたんだから、本統に飲んでおくれ、身体にさえ触らなきゃ。さア私しがお酌をするよ」

吉里はうつむいて、しばらくは何とも言わなかッた。

「小万さん、私しゃ忘れやアしないよ」と、吉里はしみじみと言ッた。「平田さん……。ね、あの平田さんさ。平田さんが明日故郷へ行くッて、その前の晩に兄、に、に、西宮さんが平田さんを連れて来て下さッたことが……。小万さん、よく私に覚えていられるじゃアないかね。忘れられないだけが不思議なもんさね。ちょうどこの座敷だッたよ、お前さんのこの座敷だッたよ。この座敷さ、あの時ゃ。私が疳癪を起して、湯呑みで酒を飲もうとしたら、毒になるから、毒になるからと言ッて、お前さんが止めておくれだッたッけねえ。