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ふるいど

古井戸

豊島 与志雄

「中央公論」1925(大正14)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 21,433 字 · 43 页

青空文庫

「何か気に入らないことがあると、じきにそうなんです。本当に飛び込みもしますまいけれど、それでも心配になりましてね。」

房子は大事な秘密をでも洩すもののように、声をひそめていた。

ところが、或る晩、本当に騒ぎがもち上った。

十時過ぎのことだった。突然、階下で大きな人声と物音とが起った。それから一寸ひっそりしたかと思うと、庭の方に慌しい足音がした。

彼はぎくりとして、駆け降りていった。

奥の座敷の真中に、松木がつっ立っていた。眼をぎろぎろさして、顔色を変えていた。

「どうしたんです。」

咄嗟に彼はそう尋ねかけたが、松木は返辞をしなかった。そして、雨戸を一杯繰り開いて、庭へ下りていった。彼も後から続いた。

房子が、庭の中をあちらこちら物色していた。

「どうなすったんです。」

「只今、光子が、井戸に飛びこむって、裏口から駆けだしましてね……。」

後は云わないで、そこらをうろうろし初めた。

月の光りもなく、庭の中は真暗だった。座敷からさしてる電燈の光が、雨戸一枚だけの広さにぱっと、植込みの茂みに流れかかっていた。

井戸の中を覗いて見ても、茂みの中を透し見ても、光子の影らしいものは見当らなかった。