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めいじんじごく
名人地獄
国枝 史郎
「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页
……が、またうつむいて針を運んだ。
サラサラと雪のしずれる音。すっかり夕陽が消えてしまった。ヒタヒタと闇が逼って来た。
浪人は一つ欠伸をした。それから内職を片付け出した。
と、傍らの本を取り、物憂そうに読み出した。あたりは灰色の黄昏であった。
「何をお読みでございます?」
「うん」といったが元気がない。「珍らしくもない、武鑑だよ」
二人はそれっきり黙ってしまった。
と、浪人が誰にともつかず、
「どこぞへ主取りでもしようかしらん」
しかし女房は返辞をしない。
浪人は武鑑をポンと投げた。
「だが仕官は俺には向かぬ」
「それではおよしなさりませ」女房の声には力がない。むしろ冷淡な声であった。
「やっぱり俺は浪人がいい」浪人の声にも元気がない。
女房は黙って考えていた。
また雪のしずれる音。……
「その仕立て物はどこのだな?」
「お隣りのでございます」
「隣りというと一閑斎殿か」
女房は黙って頷いた。
すると浪人は微笑したが、それから物でも探るように、
「あのお家は裕福らしいな?」
「そんなご様子でございます」
「ふん」と浪人は嘲笑った。「昔の俺なら見遁がさぬものを……」
――意味のあるらしい言葉であった。